僕が7歳のときに、母上が亡くなった。
春の光が降り注ぐ丘で花々に囲まれて眠る母は、いつか見た女神さまのように美しく、
父上は静かにそのそばに歩み寄ると、僕を抱きしめてこう言った。
「ギルよ…わたしは、…わたしのすべてを失ってしまったのだよ。」
僕はただただ泣きたくて、大声で泣いた。
僕は弱い子供だった。父上もまた、母上という支えを失った今、ひどく頼りなく見えた。
生前の母は、子供の僕から見ても美しい女性で、病弱な体のせいだろうか、
控えめで優しい雰囲気の人だった。母はいつもリビングの暖炉のそばで編み物をしていて、
僕はそれをそばで見ているのが好きだった。
父が仕事から帰ると、暖炉で温めたシチューをみんなで囲む、とても幸せな家族だった。
母上が亡くなってからの父上は、とても可哀相だった。
たくさんの町の人が心配して尋ねて来たが、父上は部屋に閉じこもって会おうとせず、
毎日母上の写真を見て過ごしていた。
僕はその頃、何でも覚えた。料理も洗濯も町の掃除も、何でもやった。
抜け殻のような父を見て、僕が母の代わりをしなければ家族がダメになってしまうと思った。
母上の得意料理だった「ラタトゥユ」を作ってみた。
これなら父上も元気を出してくれるだろうと考えたのだ。
でも、どうしても母上のと同じ味にならない…。僕は母上に会いたくて、一人で泣いた。
その頃から、暖炉を使うことはなくなっていた。
僕は、父上にも強い父でいてほしかった。
僕は父上を誰よりも尊敬していた。いつも町のみんなのために働き、母上のために花を摘み、
僕の頭を撫でて、口癖のようにこう言うのだ。
「人のためになることをしなさい。人に優しくなりなさい。」
でも、母上が亡くなって父上は変わってしまった。
人のためを思うどころか、僕を見てくれようともしない。
別人のように情けない父に僕は憤りすら感じ始めていた。
だから僕は、ある日決心した。父上がいつも大事に眺めている母上の結婚指輪を、
暖炉の奥に隠してしまおうと。
思い出の品がなくなってしまえば忘れてしまうだろう。
きっと立ち直ってくれるに違いないと考えた。
僕が計画を実行してすぐ、父上が血相を変えて僕の部屋に飛び込んできた。
「わたしの…あれを知らないかね!?大事なものなのだよ!見当たらないのだ!」
僕はびっくりした。なぜなら、久しぶりに見た父の顔は、目は血走り頬はこけ、
とても僕の知っている父上ではなかったから。
父上はそれから、よろよろとリビングに向かい、ひざをついた。
「わたしは…妻を守れなかった。そんなわたしが町を守れるものか。
妻がいなければ…わたし1人ではとても…。」
僕は、父のつらさを初めてちゃんと見た気がした。
僕は、今までつらそうな父に声をかけただろうか。話をしただろうか……。
自然に言葉が出た。
「父上、僕がいます。父上は独りではないです。」
父上は、振り向かすにかすかにつぶやいた。
「何を言う…。」
父上は考え込むようにしてしばらく黙り込み、それから少し落ち着いた様子で
リビングを見回し、そこにあるひとつひとつをなぞるようにそっと触った。
3人おそろいのマグカップ…、母上の愛用していたシチューの鍋…、
母が編んだ、父上と僕の色違いのニット…。
「そうか。そうだな。妻は、わたしたちがこれから生きていくために
たくさんのものを遺してくれた。
お前とわたしで、しっかり生きていかなければならないな…。」
「この暖炉はお前の母の大切な思い出が詰まっている。
いつか心の傷が癒えたらまた、灯をともそう。」
僕は父にしがみついて泣いた。今度はうれしくて泣いた。僕たちはがんばれる。
季節はまた、春を迎えようとしていた。
あれから10年。僕たち家族は冬の準備に追われていた。
「父上、ここにある古い本は捨ててしまってもいいですか?」
僕が書斎を覗くと、父は古いアルバムを眺めていた。
「ギルよ、そろそろ暖炉の掃除をしようかと思うのだよ…。
むかーし、暖炉の奥に伝説の書物をしまったこともあってね。
あれも取り出さなければいかん。」
「書物…ですか。」
僕はふと、隠した指輪の事を思い出した。
「この間、この町に引っ越してきた新米牧場主くん、お前も知っているだろう?」
あの子にその書物をあげようかと思ってね。」
父は楽しそうだった。もうだいじょうぶだろう。
ようやく新しい灯をともす決意ができたのだ。
父上が暖炉の掃除を始めてまもなく、この家に訪問者が現れる。
父の助けてくれという声でリビングへ行くと、なんと父が暖炉に挟まっているのを
あの新米牧場主が引っこ抜いたところだった。
父は、暖炉の奥から出してきた書物をあの牧場主に差し出している。
父上の顔はもう立派な町長の顔だった、
あのとき…、父上が例の指輪を見つけたかどうかは、僕はとうとう聞かなかった。
今年の冬からは、うちの暖炉にも暖かい灯がともる。
END